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AUN ーL字の金髪と発掘された人ー

水戶部七絵、根本祐杜
2022年6月11日 ‒ 7月23日

 Tokyo International Galleryでは、6月11日より「AUN」が始動します。「AUN」はプレイヤーのフラットな連携を通して、「展覧会」を再考する継続型プロジェクトです。
 現代、展覧会は様々なプレイヤーによって生み出されています。アーティスト、ギャラリスト、クリティック、アーキビスト、デザイナー、キュレーター、コレクター、リサーチャー、そしてオーディエンス、ここでは書き切ることはできません。そして各々のプレイヤーがこの繋がりに意識的であろうとなかろうと、彼/彼女たちの役割によって、展覧会は存在しています。「AUN」はこれらのプレイヤーの繋がりを自覚することで始まります。
 また「AUN」はTokyo International Gallery(TIG)という「場」に始まります。TIGは言わずもがなギャラリーであり、定期的に展覧会が開催され、作家から作品が旅立つ中継点としての機能を備えています。また本来「ギャラリー」という言葉は、建築外部の回廊を指し示し、人が往来、循環する外に開かれた場というニュアンスが存在します。
 「AUN」は始動とともに開かれた回廊を提示し、プレイヤーの繋がりを生みだしたのちに閉幕します。そしてその繋がりから、また新たに「AUN」が始まるのです。

ーL字の金髪と発掘された人―

 本展覧会は”人間のイメージ”をもとに制作する画家と彫刻家の二人展です。
 水戸部七絵はキャンバスという支持体に大量の絵具という物質を用いて絵画を構成しています。今回展示されるのは「TIME」誌をオマージュしたシリーズです。表紙を飾る世界的著名人たちを再現しており、そこにはトランプやプーチンなどの政治家や、スポーツ選手、歌手など様々なメディアで活躍し、世間を賑わしている人々——私たちがもうすでにイメージを持ちえている人物を、水戸部は絵画として再構成しています。
 根本祐杜は今回高さ3メートルにもなる巨大な人体像を展示します。「発掘された人」というタイトルの人物像は、根本の家にある庭の土を掘り、掘った跡を型取りして粘土によって成形、そのまま垂直に立たせた作品です。モチーフとなるのは水戸部とは対照的に著名人ではなく、いわば「誰でもない人」です。根本はそのような根源的な人間のイメージから作品を制作しています。

 分厚く塗りたくられた「TIME」の表紙は、描かれる有名人について私たちが持っていたイメージを破壊し、新たなイメージを再構築します。一方、直立する、巨大な「誰でもない人」は、言い換えれば「誰にでもなりうる人」であり、人間以前、あるいは人間以後の人間性のイメージを引き受ける存在です。
 二人の作品を併せて鑑賞することで、ある人物像が立ち上がりイメージが反復していきます。それは単純な個人でもなく、普遍的人類という概念でもありません。異なる制作手法を持つ二人の作家による「人間のイメージ」——L字のような形の特徴的な金髪をたくわえた人間一人でもなく、庭で発掘された粘土作りの巨大な人間一人でもなく、それは現代に生きる私たちの肖像であるのかもしれません。

水戶部七絵 / 制作風景

「水戶部七絵 / 制作風景」

根本祐杜 / 制作風景

「根本祐杜 / 制作風景」

■アーティスト
水戶部七絵
根本祐杜


■開催概要
会期:2022年6月11日(土) ‒ 7月23日(土) (※会期後も継続)
開廊時間:12:00 -18:00(火-土) ※日月祝閉場
オープニングレセプション:2022年6月11日(土) 18:00 – 20:00

■会場
TOKYO INTERNATIONAL GALLERY
〒140-0002 東京都品川区東品川1-32-8 TERRADA Art Complex Ⅱ 2F
アクセス:東京臨海高速鉄道りんかい線「天王洲アイル駅」から徒歩約8分、東京モノレール羽田空港線「天王洲アイル駅」から徒歩約10分、京急本線「新馬場駅」から徒歩約8分

Press Release JP(PDF)

Artist
水戸部七絵
画家。東京藝術大学大学院 在籍。
一斗缶に入った油絵具を豪快に手で掴み、重厚感のある厚塗りの絵画を制作する。以前からモチーフとして、著名人の人物画を描いてきたが、14年米国での滞在制作をきっかけに匿名的な顔を描く「DEPTH」シリーズを制作し、16年愛知県美術館の個展にて発表、20年同美術館にて「I am a yellow」が収蔵される。近年は、20年上野の森美術館「VOCA 奨励賞」を受賞、22年東京オペラシティ project Nにて個展を開催。また菅田将暉「ラストシーン」のCDジャケット Art coverに採用され、CASIO「G-SHOCK 2100シリーズ」PRに出演。代表作にマイケル・ジャクソンやデヴィッド・ボウイなどのポップ・アイコンをモチーフにした「STAR シリーズ」、SNSに上がる世界各国の時事の出来事を描いた「Picture Diary」等がある。主な展覧会に、22年「war is not over」void+、「OKETA COLLECTION: THE SIRIUS」スパイラルガーデン、「project N 85 水戸部七絵|I am not an Object」東京オペラシティ、21年「VOCA展2021」上野の森美術館、「Rock is Dead」biscuit gallery、20年「-Inside the Collectorʼs Vault,vol.1-解き放たれたコレクション展」WHAT、19年「I am yellow」Maki Fine Arts、2016年「APMoA, ARCH vol.18 DEPTH ‒ Dynamite Pigment -」愛知県美術館など。

根本祐杜
1992年 千葉県銚子市出身。
セラミックを主な素材として彫刻作品を制作。近年では大きな人をさまざまなイメージの元、制作しておりそのイメージの発生源はドローイングや夢、日常の中で営われる思い込みや気付きにより発生する。tigでは高さ3メートル強の巨大な人を展示する。庭に掘られた人型の穴をそのまま立体にし、垂直に立たせる。そこに立つ人物は土から発掘された新人類となる。主な展覧会に、21年「ナッシングアットオール」TokenArtCenter、20年「パーフェクトオフィス」AOYAMA STUDIO164。受賞歴:21年「群馬青年ビエンナーレ」入選、18年「CAF賞2018」最優秀賞、15年「日本大学芸術学部長賞」。パブリックコレクション:15年「山梨県笛吹市大垈いやしの杜公園に根本祐杜先生像永久設置」。

 

Gallerist
島村航介 Kosuke Shimamura
ギャラリスト。東京生まれ。2012年に渡米し2016年に帰国。米国での作家・Michael Hoとの出会いにより2019年にTokyo International Galleryを設立。国内外のアートフェアに出展し2020年に現在のギャラリーを天王洲・TERRADA ART COMPLEXⅡにオープン。ギャラリー運営を通して日本のアートシーンをさらに躍進させるべく、新進気鋭の作家を中心に展示を展開している。

谷本弥生 Yayoi Tanimoto
ギャラリスト。ロンドン生まれ。オーストラリア、イギリス、アメリカへの留学を経て2019年に帰国。日本のアートシーンをグローバルに展開することを使命とし、アーティスト個々人に寄り添う第一の理解者/サポーターとして協働。国内外のアートを媒介するパイプラインとして、アーティスト、コレクター、キュレーター等、現代美術に関わる多様なプレイヤーをニュートラルに繋ぐ。 主な展覧会企画に「Have you ever seen a ghost」(2022)、「The Practice of Alchemy」(2021)、「Everything but…」(2021)、「Endless.」(2021)「H―C三N」など。(左記全てTokyo International Gallery)

 

Designer
浅井美緒 Mio Asai
1997年東京生まれ。東京藝術大学美術研究科デザイン専攻。個人史から社会問題を紐付け、広義的に編集を行い、視覚情報としてグラフィックを軸に表現している。クライアントワークとアートワークを横断しながら、デザイン領域に軸を置いて活動している。

 

Concepter
髙木遊 Yuu Takagi
1994年京都生まれ。東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科修了。 キュレイトリアル・スペースであるThe 5th Floor ディレクター。ホワイトキューブにとらわれない場での実践を通して、共感の場としての展覧会のあり方を模索している。主な企画展覧会として「生きられた庭 / Le Jardin Convivial」(京都, 2019)、「二羽のウサギ / Between two stools」(東京, 2020)、「Stading Ovation / 四肢の向かう先」(静岡, 2021)

 

Critique
太田光海 Akimi Ota
1989年東京都生まれ。映像作家・文化人類学者。神戸大学国際文化学部、パリ社会科学高等研究院(EHESS)人類学修士課程を経て、マンチェスター大学グラナダ映像人類学センターにて博士号を取得。パリ時代はモロッコやパリ郊外で人類学的調査を行いながら、共同通信パリ支局でカメラマン兼記者として活動。この時期、映画の聖地シネマテーク・フランセーズに通いつめ、シャワーのように映像を浴びる。マンチェスター大学では文化人類学とドキュメンタリー映画を掛け合わせた先端手法を学び、アマゾン熱帯雨林での1年間の調査と滞在撮影を経て、初監督作品となる『カナルタ 螺旋状の夢』を発表。また、2021年には写真と映像を用いたインスタレーションを展開した個展「Wakan / Soul Is Film」(The 5th Floor)を開催し、さらに熱海で行われた芸術祭「ATAMI ART GRANT」に参加するなど、映画に留まらない領域で表現活動を行う。

 

Photographer
竹久直樹 Naoki Takehisa
1995年生まれ。 多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース卒、2019年よりセミトランスペアレント・デザイン所属。 主にソーシャルメディア普及後における写真を扱いながら、 撮影を行う。 近年の主な個展に「スーサイドシート」(デカメロン、東京、2022)、展覧会参加に「惑星ザムザ」(小高製本工業跡地、東京、2022)、「沈黙のカテゴリー」(クリエイティブセンター大阪、大阪、2021)、「エクメネ」(BLOCK HOUSE、東京、2020)など。また展覧会企画に「power/point」(アキバタマビ21、東京、2022)、「ディスディスプレイ」(CALM & PUNK GALLERY、東京、2021)などがある。

 

Editor
月嶋修平 Shuhei Tsukishima
作家。1990年兵庫県生まれ。京都大学総合人間学部精神分析学専攻除籍。
文章表現からアートに携わる。展示文章や出版物の構成/編集の傍ら、作家としても美術展に参加する。主な参加展覧会に『The Drowned World Anchor』(東京、2019)、『ストレンジャーによろしく』(石川、2021)、『PROJECT ATAMI』(静岡、2021)、『N貸家はいい貸家 発光する貸家と発光する音楽』(東京、2021)など。キュレイトリアル・コレクティブ「HB.」メンバー、作家集団『モノ・シャカ』の一員。

根本くんのアトリエを訪れて 2022. 4. 4.

彼を直接知ったのは昨年の冨井大裕企画「ポリフォニックなプロセス+プレッシャー」で一緒に展示をしたときだった。当時は、実際の彼と、あの「CAF賞を獲った人物」とはリンクせず、デフォルメこそされているが、どう見ても『ONE PIECE』 のルフィをセラミックにした作品が印象的だった。本人と話してみると、ユニークな作品と雰囲気とは逆に、彼は意外とアカデミックな世界に居て、博士課程の真っ只中であった。そして、彫刻と絵画の問題について、レトロスペクティブな話題について語っていた。私は、彼の面白さを別のところに感じていた。パブリックなキャラクターを題材に扱うことは著作権に関するリスクを孕むが、彼はそのモチーフを軽やかにジョークを交えながら自らの作品としてしまう。そんな作家が開く展覧会は、現在のアートマーケットに対抗するようなものとなるのではないだろうか——。そのように感じたのを覚えている。

次いで、彼のアトリエを訪問した。広い工場で、風はおうおうと鳴り響いているし、扉のキィーとゆっくり閉まる音はまさにホラー映画!『羊たちの沈黙』のワンシーンにありそうな——突然死体が現れてもおかしくないような——工場だった。そこには、大きな釜と、これまで制作してきた根本くんの新旧作があった。顔が絵付けされた壷は無造作に床に置かれていて、根本くんはそれに「土と植物を植えたい」と語った。本来、美術品に対してはありえないアイデアである。一瞬頭の中で、「ポール・クレンドラーの脳みそから植物が生えたような」グロテスクな想像をしてしまったが、顔を描き続けている私にとっては、植物と土の存在は何か救いのような存在にも感じた。私がポートレートを描くときには、滑稽さと愚かさと美しさと暴力に塗れた、一種の人間模様を主眼に置いているつもりだ。一方、自然という存在は、ときに人間にとってアレルギーや災害にもなり得るが、生命の誕生に必要不可欠なものだ。彼の思考と作品は、人間中心的な世の中において、ある種の癒しになるだろう、そう思った。

二回目に訪問したときに驚いたのは、広大な敷地、そのなかで巨大な三メートルの人型の穴にコンクリートが流し込まれたさまだった。まさにゾンビか! と思った。しかし、更にその横たわった二体の人間(男女)は立ち上がり、土ごと展示会場に運ばれるという。
今一度彼の作品を見渡してみると、一般人、あるいは原始的な格好の人間がモチーフに多いことも面白かった。彼ら/彼女らは普段はスポットライトが当たらない一般市民にも見えた。著名人ばかりを描いてきた私としては、私の作品と彼の作品を組み合わせることで、その展示は社会を反映させた空間になるのでは、と予感した。
想像するに、トランプゲームの”大富豪の革命”じゃないけれど、私の小さな政治家達の絵画は、彼の巨大な市民には勝てないだろう。そんな結末も良いかもしれない。

水戸部 七絵

水戸部さんについて 2022. 5. 1.

彫刻は、この世界に物質を伴って存在してしまう表現だと考えている。
私が水戸部さんと初めて遭遇したのは、今からちょうど一年前、武蔵野美術大学で行われた彫刻科の展示だった。首像をテーマにした展覧会で、各作家が首像を制作して同一の台座に並列に置くという内容だった。水戸部さんはその中で唯一画家として参加しており、彼女は首像たちが置かれているブースとは離れた会場で絵を壁に展示していた。水戸部さんの絵は、大量の絵の具を用いることで絵画というスクエアの画布から浮き出していて、絵の具という物質がこの現実に存在する、してしまう。この展覧会においても重量的にものすごい重さの絵を壁にかけていた。自分が面白いなと思ったのは、「彫刻」の設置の際に生じるおなじみの光景——何人もの人間が、一緒に手伝いながら設置する——を「画家」の水戸部さんが繰り広げていることにあった。何人かの学生のスタッフが、息を合わせて、せーの、と言いながら重量級の「絵」を壁に立て掛けている構図は今までみたことがないのと同時に、いつも彫刻の現場で見慣れた動きでもあった。この光景を印象づけたもう一つの理由に、逆に彫刻家の面々たちは制作した首像を決められた台座に置くのみで、並び順も展覧会企画者である冨井大裕さんが決めることになっており、作品のみ会場に送って作家は会場に現れず、といった割と簡単なインストールとなっていたことも要因としてあったように思う。私は会場にて調整が必要な作品だったために現地に向かったのだが、参加する作家のほとんどは現場に来ていなかった。展示した作品はONE PIECEの主人公であるルフィを彫刻したもので、ONE PIECEの主要なテーマであると私個人が勝手に考えている「仲間」という設定を引用して、並列に並べられている世代や素材、形態異なるさまざまな首像をルフィの仲間として取り込んでしまうことをねらいとしていた。水戸部さんは著名人や実在する人間などをモチーフにして作品を展開している作家でもあるので、このルフィを面白がってくれて、著作権の問題(ONE PIECE側の人に許可を取っているか)など法的な対応の話をした。私はかねてより遊戯王やポケモン、ロボコンなどのオリジナルとして流通するイメージをなんの許可もなく二次創作し勝手にギャラリーなどで展示していたので、著作権の問題などはそろそろ気にしなくてはいけないなというか、どうなっているのだろうという興味もあって色々教えてもらった。水戸部さんのアドバイスによりルフィをルフィとしてそのまま展示してしまうとONE PIECE側の人間に発見され問題になったときにややこしくなるというような話を聞いたので、タイトルを「Pirates King」としその場は解散となった。その後水戸部さんから電話があり、この展示のお誘いをいただき、受けたわけただが、当時水戸部さんは二次創作的キャラクターや著名人の作品を美術の領域で展開することに展覧会の方向性を定めていたと思う。私もそれはそれで面白い展覧会が実現するとは思ったが、今回は新たに作りたいイメージもあったので新作を展開する方向で考えさせてもらった。ここで最初の発言に戻るのだが、彫刻は物質を伴ってこの世界に存在してしまう強いメディアである。私はイメージから制作を始め、素材や物質との格闘を始めていく対話こそ彫刻の重要な要素であり、これはある意味、制限、足かせにもなっていると考える。イメージは数秒で思いつく。が、それを実現させるとなると、ものすごい時間と労力、アクシデント、どうしようもなさと向き合い続けないと作品は完成しない。絵がいいな、と思うところの一つは、作家は絵というフレームの中において宇宙を想像できるし、物理的法則を無視したイメージをそのまま代入することができる、そのようなメディアだという点だ。しかし水戸部さんの絵はそのイメージから絵の具がこの世界に飛び出て現れてしまうので、大型の作品になると壁にかけられなかったり、通常考えられる重さじゃない絵などは平置きにしてほとんど動かせなくなってしまう、という独特の状況が起こってしまっている。それは四角のキャンバスに収まらない、イメージから脱出した格闘の痕跡とも言えるかもしれない。水戸部さんのアトリエを見ていると絵の具との格闘の痕跡が至るところにあって、格闘技場のようなイメージを印象として受けた。思考や手法、メディアなどは彫刻と絵画で違うが、この世界で表現者として格闘するあり様はどこか作品同士を繋げていくのではないだろうか。もしこの展示によってその光景を見ることができたなら、それは新たな表現につながっていくだろうし、制作し考え続けることはその連続性の中にあるのかもしれない。

根本 祐杜

ギャラリーより 2022. 6. 6.

まず、水戸部氏との出会いは2年前に遡る。
新しくギャラリーをオープンするにあたって、そのグランドオープンに出展いただく作家を探していた。雑誌、インスタグラム、展覧会など様々な媒体から情報を集め、興味を持った作家の方へメールで連絡をとった。水戸部氏はそのうちの一人だった。
得体の知れないギャラリーからのメールは、さぞ「迷惑メール」のように見えただろう。それでも水戸部氏は、アトリエ訪問を快諾してくださり、2020年7月7日、私と谷本は東金にある水戸部氏のアトリエに足を踏み入れた。学校の体育館のように大きく存在感の強い空間だったと記憶している。空間に広がる絵の具の匂いはどこか心地よく、異空間へ入り込んだような気分になった。アトリエから出てきた水戸部氏は全身絵の具塗れのツナギを着ていた。作家の選定において「作品だけを観て」判断する私からすると、良い意味で、想像していたのとは異なる人物像だった。
水戸部氏の作品の第一印象はその強さにある。厚塗りを重ねたその作品群は、「怒り」「訴え」「ヒーリング」を兼ね備えた、水戸部氏にとってある種の精神安定剤のように感じられた。この訪問で、私は水戸部氏に出展を正式にお願いし、2020年10月1日、グランドオープンとしての展覧会「H―C三N」の開催が実現した。
今回、この展覧会を開催するにあたって水戸部氏と話しているなかで、根本祐杜氏の名前が浮上した。水戸部氏は一度、武蔵野美術大学のグループ展に共に参加した経験があったことから「根本氏とやりたい」と語った。
2021年12月6日、銚子にある根本氏のアトリエへ水戸部氏と訪れた。そこは、薄暗さと寒さとがあり、点在する作品の一部には不気味で怖い印象を持ちつつ、作品自体は匿名性を意識した世界観で、誰でもない「人」というものの根源を語るものだった。植物を植えてある植木鉢の作品は、その陶器自体の重量もあるが、生きている植物を植えることで更に重たく、存在感が増す。
アトリエにて根本氏が「これを創りたい」とその場で描いたスケッチがある。

そのあとコンセプターを迎えるという話になり、金沢21世紀美術館の学芸員である高木遊氏の名前が挙がって、すぐに依頼をした。また展評をお願いする人を探すという話でこの日は終了した。

年が明けて3月20日、この展示に関わる大部分のメンバーが集まる機会を得た。
ギャラリスト、作家、コンセプターのオファーを受けてくださった高木氏、そして高木氏が連れてきた映画監督の太田光海氏。
全員、水戸部氏のアトリエに集合し、その後根本氏のアトリエへ向かった。この日は、2人の作家がそれぞれ出展しようとしている作品の説明や、高木氏のインタビュー、太田氏に展評をお願いする話をし、陽が沈んだころに解散した。その後、高木氏より今回のコンセプトでもある「AUN」の概要説明があり、主要メンバー総勢9名でこの展示が進められることとなった。

様々な議論を交わすなかで、水戸部氏は『TIME series』を、根本氏は上記スケッチのように高さ3mにもなる巨大な人体像を発表することとなった。
水戸部氏の『TIME series』はTIME誌の表紙をオマージュし描き上げたシリーズである。大まかな時系列順に42枚の絵画を並べた光景は、TVやSNSで著名人が訴えを続ける様子のようで、どこか社会を映しているように見える。一方根本氏の作品は『発掘された人』というタイトルで、自宅の庭の土を堀り、掘った後を型取りし、粘土で形を作ることによってそのまま垂直に立たせたものとなる。その巨人は、発言力のない大衆のイメージのように見え、それが水戸部氏の42枚の『TIME series』と対照的に置かれている姿は、まるで決闘のような、あるいはデモや抗議のような緊張感がある。

今回の展覧会は、様々な役割を持つ人々が一つの展示を魅せるという部分に着目した。発案から約半年、ギャラリストからの声かけによりスタートしたこの展示であるが、アーティスト、コンセプター、デザイナー、批評家、フォトグラファー、エディター、それぞれが何度もミーティングを重ね、アトリエへ惜しみなく通い、ディスカッションを積み重ねるごとに進化していく様子を実感することができた。
集大成として、ホワイトキューブに各作品群を入れ込んだとき、見えてきたものは、今なお二人の作品たちがディスカッションをしつづけている光景だ。

島村 航介

「コンセプト」という言葉について整理しておきたい。Oxford Languagesでは「1.概念」「2.企画・広告などで全体を貫く基本的な観点・考え方」とある。1の「概念」という無骨で抽象的な使い方はなかなかお目にかからない。本稿にて扱う「コンセプト」は2であろう。日常で見かける「コンセプト」たちの多くについても同様である。そして、アーティストたちは、この2の意味において「作品のコンセプトとは?」と投げかけられ続けてきたのではないか。そして筆者自身はこの問いをアーティストたちに何度も投げかけてきた一人だ。つまりコンセプトは物事の言語的側面を指すものだ。そして、現代アートの領域が「コンセプト」が直接的に紐づけられるのは、デュシャンを経てコンセプチュアル・アート3の勃興があったからであることは間違いないだろう(これは極めてわかりやすい説明なのかもしれない)。そして現代アートは「コンセプト」に対して壮大なロマンを懐きながらも、極めてロジカルであることを求め、逡巡している。

上記を踏まえて、私が「コンセプト」について書くならば、それは展覧会においてプレイヤー間の諸関係が織りなす非物質的なものについて、あるいはその「展覧会」において二人の作家による極めて物質的といえる諸作品が生み出す相互関係を掘り下げることになろう。しかし、二人のアーティストが今ここで何を展示するのか、そして作家同士がどう作家を思い、捉え、考えているのか。つまり、本展の「コンセプト」は水戸部七絵/根本祐杜の両者によって書かれた相互についてのテキストにも記されているので併せて読んでいただきたい。

さて、本展は、水戸部による『TIME series』と根本による『発掘された人間』を主軸とする。『TIME series』はTIME誌の表紙を模した42枚の絵画により構成される。1941年にヒトラーを表紙にしたもの、それから2022年のゼレンスキー大統領までがおおまかな時系列に沿って壁面全体を覆う。本作は雑誌の実物、あるいはネット上から収集された膨大な画像をもとに描かれている。水戸部はコロナ禍にて外部との接触をSNSに求め、海外のニュースやそのヴィジュアルのリサーチを通して本シリーズは開始された。

一方、根本の『発掘された人間』では、近年根本が取り組んできたセラミック(陶芸)の手法が用いられる。根本の自邸の庭に掘られた穴は人型を模しており、その型を基に作られたセラミック製の巨大な人間が会場に直立している。そして、この人間の眼前には、自らが発掘された痕跡である大量の土と穴があり、その人間を取り囲む植木鉢には根本の庭の植物が植えられている。根本は、本作が「自邸の庭をTIGという場に移植する営みであったのではないか」と言う。

二人の作品が対峙したとき、浮き彫りとなるコンセプトとは何か。恐れずに言うならば、いわゆる「コンセプト」のないことだ。それは——わかりやすい意味での——アーティスティックなコンセプトだ。

例えば、水戸部の同時期のシリーズである『Picture Diarly』(東京オペラシティ)におけるステートメントには「差別や偏見なく、 他者という存在を全人格的に受け入れる彼女の制作姿勢が色濃く窺われる」4とある。この態度は本展においても通底する。『Picture Diarly』において水戸部は日々触れるニュースをモチーフにし、匿名の人物を描くことも多かった。本展で水戸部がモチーフとするのはいわゆる著名人であるが、そこに歴史と現状をフラットにするような恣意性はない。水戸部は外界情報をコンセプトの生成手段として得るわけではなく、そこにあるのは、情報が過度にはいってくる状況、それを描かずにはいられない水戸部自身の衝動と、そして結果として「絵画がある」という事実だ。また、根本の『発掘された人間』もまた、大地から人間を立ち起こしたいという彼自身の欲求が根底にあって、そこに無理にコンセプトを生み出そうという作為はない。それが自邸の庭から立ち上がりこのホワイトキューブに移植されたということ、そして同じくしてその庭の植物と土を持ち込んだことが作品として結実している。
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3 コンセプチュアル・アートについては、沢山遼氏が簡潔かつ明快にまとめている。下記を今一度読んでみたい。
アイデアやコンセプトを作品の中心的な構成要素とする動向のこと。1961年にヘンリー・フリントにより、「コンセプト・アート」という名称が初めて使用された。その概念を確定的なものにしたのは、『アートフォーラム』誌に掲載されたS・ルウィットのエッセイ「コンセプチュアル・アートに関する断章」(1967)である。「概念芸術」とも訳されるように、作品の概念や観念的側面を重視するため、言語はもっとも重要な媒体になりうるものであり、批評家のL・リパードはこの傾向を「芸術作品の非物質化」とも定義している。
2022年6月1日アクセスhttps://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%97%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88
4 2022年6月5日アクセス https://www.operacity.jp/ag/exh248.php

コンセプトが求められるのは、「わかりやすい」を燃料に加速しつづける現代アートサーキットに起因するかもしれない。一方、わかりやすいコンセプトを語ること、語らせようとすることは、作品をゆがませ、がんじがらめにすることでもある。明確なコンセプトがあり制作したとしても、制作過程でコンセプトは変化し、作品も変化する。そしてまたそれが展示される際にも作品、あるいはそのコンセプトも変化してしまうものなのだ。それに留意しながら、一点だけ述べると、当然のことながら二人の作品には、わかりやすく絵画的であること、わかりやすく彫刻的であることへの反駁があり、そこにはアーティスティックなコンセプトへの希求があるのかもしれない……とも考える。しかしながら、複雑さを増していく世界のなかで数多の表現手段が可能となる現代アートでは、コンセプトと作品自体との非物質的な関係も鑑賞の対象であるということをここに強く述べておきたい。

【追記】僕は、AUNは、自らの主語を見つけることができるのか 2022. 6. 10.

改めて「AUN」は「展覧会」を再考するプロジェクトである。「AUN」は「阿吽」に由来し、終わりと始まりの渾然一体のありようを表現することを意図した。自らが携わる「展覧会」は、何かが終わり何かが始まるような状態のなかで、それは「進化ともいえるものであれ」と思っている。「展覧会」には、鉄板のフォーマットやパッケージはない。制度に裏付けされた回答を常に疑い、変化させる必要がある。

「AUN」は「展覧会」の「主語」を問うている。多くのプレイヤーが関わる「展覧会」というメディアの「主語」はなにか? 作品自体なのか、それとも作家なのか、はたまたギャラリーなのか、オーディエンスなのか、もしかすると他のプレイヤーたちなのか。さまざまな「主語」が複雑に絡み合いながら、その繋がりとぶつかりで生まれる「展覧会」の破片を拾いあげ、現在進行系の「展覧会」を確かめることが「AUN」なのだと言いたい。

濁流にのまれつつ、それに反駁しなければならない。世界を都合がいいものと感じているのなら、それは自身が利用されているのだと自らに言い聞かせなければならない。自分の心躍る方向を信じなけばならないが、気づけば踊らされていることを受け止めなければならない。「主語」たちが放つ、バカみたいな信念が出会うことこそが「展覧会」である。本プロジェクトでは「主語」と「主語」が対峙しつづけなければならない。僕はその「主語」のうちの一つであり、そうあることに荷担し続けるのだ。

高木 遊

色彩を持った遠近感、あるいはヘテロトピアについて

太田光海

《ヘテロトピア》は不安をあたえずにはおかない。むろん、それらがひそかに言語をほりくずし、これ《と》あれを名づけることを妨げ、共通の名を砕き、もしくはもつれさせ、あらかじめ「統辞法」を崩壊させてしまうからだ。

―ミシェル・フーコー『言葉と物』―

人は発見する。おたがいに発見する。おたがいにある一つの共同体の一員だと。他人の心を発見することによって、人は自らを豊富にする。人はなごやかに笑いながら、おたがいに顔を見あう。そのとき、人は似ている、海の広大なのに驚く解放された囚人に。

―サン=テグジュペリ『人間の土地』―

展示室に足を踏み入れた瞬間、時空の歪みを覚え、「ここはどこだ?」と一瞬混乱した。ここは間違いなく極東の大都市東京であり、整備された品川区の埋立地なのだが、このホワイトキューブの中だけは、異国のような匂いがしたのだ。いや、異国というよりは、ルーツがどこにあるのか判然としない無国籍感、と言い換えたほうがいいかもしれない。さらに補足するならば、それは”cosmopolitan”よりは、むしろ”out of nowhere”という感覚の方が近いだろうか。ここで言う「匂い」とは、これでもかと油絵の具が重ね塗りされた水戸部の作品が強烈に発する物質的な匂いにも、根本が何重にも織り成す「土臭さ」との対話だけにも還元されない。そこにはどこか、我々が常日頃前提としがちな美術体系に対する不断の交渉と「アンラーニング=学び捨て去ること」の高度なプロセスが残響としてあった。日常生活が否応なく醸成し再生産する知覚を一時的に遮断することで、この世界における平衡感覚を意図的に奪い、例え束の間だとしても新たに練り直す可能性を示す手段としてのホワイトキューブの意味を、改めて意識させられた。それはまた、「他」なるものに対して開き、矛盾や動揺、感覚の変容を促す場としてのヘテロトピアへの入り口でもあった。
細部に渡る観察と思考を積み重ね、入念に構築された作品内部におけるコンテクストの密度が求められ、称揚されるのが昨今の現代アートの支配的潮流である。それはまるで、マジシャンが一見してもよく理解できない手品を披露し、そのあとに少しずつ種明かしをしていく様に似ている。鑑賞者は作品の「裏の裏」を読み解くことを無意識に強いられ、マジシャンたちはさらにその裏をかくことを期待され、多かれ少なかれ目指してもいる。そこには暗示とメタファーの相互作用があり、「見えそうで見えない、それでも最後には見える」焦らしの技術が適用されている。そして、アートに対するそのような態度自体が、ノウアスフィア(認識の増殖が織り成す情報の複雑圏)が支配する高度資本主義社会のメルクマールであると同時に、「対象」と我々の身体的かつ直感的な繋がりを遮断する要因でもある。筆者が本展示からまず感じたのは、激流のごとく増殖を続ける情報と、平行して求められるそれらに対するリテラシーとの、いわば楽天的かつ能動的な、限りなく拒絶に近い折衝と交渉であるとも言える。
水戸部七絵と根本祐杜の本展示参加アーティスト両者は、表現の対象に対する直線的な感覚をどちらも有している。直線的な感覚は、例えばラフな手の動きをあえて強調した両者の出品作から垣間見える。絵筆や轆轤といった、展示作品を一見したときに我々がカテゴライズしてしまいがちな「絵画」や「陶芸」あるいは「彫刻」といったジャンルを象徴する一連の道具を放棄することによって、これらの作品は絵画でも陶芸でも彫刻でもなく、絵具、キャンバス、粘土といった物質とアーティストの間のダイレクトな身体的ぶつかり合いの集積と化している。それは、例え彼らの経験知が(作品同様に)何重にもレイヤー化され、美術作品としての雛形に一旦は落とし込まれたものだとしても、その奥底に感情的かつ肉感的な、創作の初期衝動と歓喜を感じさせる大きな要因の一つである。
しかし、展示全体から感じる両者の「手」の軌跡とそれに伴う感情の動きは、本展示の一要素に過ぎない。本展示は、抑制されたジオメトリックな動きが想起させる理性や論理といった対象との関係の作法を一方で対極に置きながら、他方でキッチュ、シニカル、あるいは挑発的とも捉えられる妙な毒味を想起させもする。例えば米『TIME』誌の表紙を「模写」した水戸部による連作は、ケネディ、オバマ、トランプなど歴代のアメリカ合衆国大統領や英国王室の面々、マドンナやアーノルド・シュワルツネッガーといったセレブリティを、実際に使用されたパンチ力ある見出し語とともに大胆にデフォルメする。理不尽なまでに極厚に塗り重ねられた油絵の具の圧倒的な質感と、『TIME』誌の表紙の特徴である鮮烈な赤色の多用に加え、顔の特徴が無慈悲に掻き回されたセレブリティ(主に白人で金髪)たちの表情からは、どこか酷い殴打を浴びたあとの怪我人のような趣すら漂う。さらに水戸部は、現在進行中のロシアによるウクライナ侵略を表紙にした『TIME』誌も連作に含めている。筆者が壁一面の水戸部による連作を鑑賞しながらアンディ・ウォーホルによる交通事故シーンの連続写真を大胆に取り入れた作品『Orange Car Crash』(1963)を思い出したのは、「コピー=複製」というポップアート的なアプローチや赤々とした色彩といった両作の共通項だけが理由ではない。そこには、暴力、悲劇、モラルといった、感情的規範が容易に規定されがち(「交通事故は悲劇であり、被害者を作品で扱うべきではない」)な諸要素に対する、ある種の異化作用を生み出す姿勢が感じられる。
また、水戸部が2019年に『I am a yellow』という展示を開催し、ステイトメントで自ら触れているように、「人種」は彼女の作品制作の大きなテーマの一つであり、それは「顔」の表象を前景化した本展示出品作からも感じられる。黒人男性であるジョージ・フロイドが警察によって殺害されたことをきっかけに全米に広がった反黒人差別運動「Black Lives Matter」に並び、新型コロナウイルスの感染拡大によって世界的に広がった反アジア人差別は記憶に新しく、世界各国のアジア系の人々への暴力を今も醸成している。歴史を遡れば、19世紀に西洋で巻き起こった「黄禍論」を持ち出すまでもなく、様々な言説やメディア表象を基点に、日本を含むアジアにルーツを持つ人々は、西洋において時に象徴的かつ直接的な暴力にさらされてきた。この点についてはエドワード・サイードやフランツ・ファノンといったポストコロニアリズムの論者を引き合いに出しながら論じたいところだが、その紙幅はないため、このテーマについては筆を改める必要がある。しかし、筆者が冒頭で強調した本展示が纏う無国籍感は、良くも悪くもガラパゴス化が甚だしい日本国内の美術文脈では認知されにくい退っ引きならない国際情勢や、ある種のポリティカル・アートが醸し出すアイロニーを水戸部の作品が引き受けていると感じたことにもよる、ということは述べておきたい。
高度情報化社会と複製芸術時代を逆手に取った水戸部のアプローチとは異なり、根本の作品群からはどこか「古代」の薫りを感じる。禍々しい原色が特徴的な水戸部の作品に対し、根本の多層的かつ領域横断的なラインナップは一転してアースカラーに彩られ、展示会場の磁場に強力なコントラストを生み出す。いの一番に視線を奪う、大地からそのまま仁王立ちで起き上がったような巨人の立体作品はその最たるものだが、「鉢植え」として使用された一連の壺作品やそれらに移植された植物たち、さらには粘土をフレームとして使用したドローイング作品に至るまで、本展示における根本の作品には「大地」との変幻自在な対話が通底している。立体作品を多く散りばめ、さらには人型の作品や顔の描かれた作品を中心に据えることで、本展示はまるで根本の作品が水戸部の作品を鑑賞しているかのようにも感じられる。また、そのような展示内における物語性は、宇多田ヒカルが表紙を飾った『TIME』誌をモチーフにした根本による新作によって、象徴的に補強され、両者を接着させてもいる。水戸部が根本に呼び掛けたことから始まったという『AUN』と名付けられた本プロジェクトに確かに呼応するように、そこには単なる二人展という形式以上の両者による相互作用が存在していると言えるだろう。それはまた、様々な面において、同時代のアーティストでありながら遥かに隔たった時代性をそれぞれの作家性に纏わせた両者による、彼岸の対話でもある。
「古代」をどことなく感じさせる根本の作品は、先述したアースカラーをふんだんに用いた色彩感覚に加え、エジプトの古代壁画を想起させるような独特の顔の筆致や、土偶のような立体作品の出で立ちによる歪な線形、そして荒々しい起伏によって特徴づけられる。さらに、鉢植えというある種の生活用具を模した作品を随所に配置することで、「美術」という概念が生活空間から切り離された鑑賞体験としていまだ確立されていなかった時代を必然的に思い出させる。「生活用具」を再解釈した美術作品は数多く存在するが、作品から視線を浴びるという点では、例えば岡本太郎による『座ることを拒否する椅子』と共通する要素が見受けられる。また、大地から立ち上がりそびえ立つ巨人からは、太郎の最も有名な作品である『太陽の塔』にも似た、大地と人間との関係を直角的かつ威圧的に表現する姿勢を感じた。縄文時代に魅せられ、日本国内の土着文化や世界各国のプリミティヴ・アートに傾倒していた太郎の作品群の残り香を根本の作品から感じたのは、決して筆者の独りよがりとは言い切れないはずだ。
水戸部と根本による本展示は、いくつかの共通項と対比を伴いつつ、両者の無国籍感あふれる横断的な作品群と、展示内部に組み上げられた視線の交換によって、我々を国境や時代性をまたぐ想像空間に誘い込む。それは確かに現在進行系のクリエイションでありながらも、「現代アート」とくくられる同時代性の軛を突き抜け、物質性と時間性の両面において、凄まじい遠近感を筆者に突きつけた。それはある意味、安易な言語化が困難な体験であることにより、鑑賞者を不安に陥らせる。しかし、本展示を異種混淆的な動揺の場、すなわちヘテロトピアとして捉えることで、そこにただ存在する彼らの作品に直に向き合い、自己の揺らぎをそれ自体として味わうことができる。そのとき、無意識的に受け入れていた「これ」と「あれ」をつなぐ言葉と物の関係の一部が崩れ、再編成されていく動きの萌芽を感じることができるはずだ。