The Practice of Alchemy

井田大介、神農理恵、西太志
2021年9月11日 - 10月23日

Tokyo International Galleryでは9月11日より井田大介・神農理恵・西太志、3名の若手アーティストの新作による「The Practice of Alchemy」を開催致します。

本展「The Practice of Alchemy」は、「Alchemy / 錬金術」という不可解で神秘的な変成行為をアーティスト達の創造行為になぞらえるものです。現代社会ではフィクショナルな響きをもつ錬金術は、ある種の科学的理解の欠如あった紀元前に生まれました。錬金術の卑金属[1]を金に変えようとしたり、不老不死の薬を造ろうとする試みは、荒唐無稽な行為ではありましたが、結果的に近世の化学や医学の基礎を作ることになったのです。そう「The Practice of Alchemy」は「錬金術」という既存の事物を変容させ新たな可能性を切り開く行為に主眼をおいています。

「The Practice of Alchemy」では、3名の作家により、オブジェクトの実用的な役割、素材の役割、そしてアート作品としての役割が、「錬金術」的にお互いに作用しながら変容していきます。

井田大介(いだ・だいすけ)は、彫刻という形式を問いながら、具体的な社会事象や現象をモチーフに、彫刻・映像・3DCGなど多様なメディアを用いて制作しています。本展では日常生活にあふれるアクションやオブジェクトを元に「彫刻的」を問う作品を展示します。本作は都市生活や自然環境にありふれた「モノ」や当たり前の「行為」が、人の手により再構築されることで、新たな物語を生み出します。

また、神農理恵(しんのう・りえ)はコンクリートブロック・鉄・⽊材など硬質なイメージがあるが扱いやすい素材に、パステルカラーのメディウムで着彩した主に⽴体作品を作っています。本展では、「wax on block」と「wax on gum tape」の2シリーズを出展します。本作は、作家自身が拾い集めた「コンクリートブロック」という硬い素材と「ワックス」という柔らかい素材を錬金術的に融合させます。

最後に西太志(にし・たいし)は虚構と現実の境界や匿名性をテーマに、木炭によるドローイングから発展した絵画と、黒い陶土による陶作品や衣類に泥を塗り込み、焼成した立体作品も制作しています。近年では、絵画と立体を組み合わせて展示し、画像と物質性の相互関係を探求しています。本展では、作品マテリアルの錬金術的変容に合わせて、展示空間における平面作品と立体作品が新たな相互作用を引き起こします。

たとえ、どのようなオブジェクトでも、素材であっても、アート作品として展示することで、必然的に探求する価値があるものとみなされます。井田、神農、西、3作家の作品には、制作の過程において変成/変容のプロセスが取り込まれていますが、この変成/変容とは、アーティストの管轄を超え、鑑賞者が作品を自身の体験や経験を通すことで成し遂げられます。つまりアーティストと鑑賞者による相補的な変成のプロセスがアート作品に錬金術のような本質的変化をもたらすのです。本展では、皆様に創造的錬金術がもたらす変成の様相を体験して頂けると幸いです。

[1]化学の世界では、卑金属は空気中で熱したりすると容易に酸化される金属を指す。卑金属という言葉は古来、金と銀以外の金属全般を指していた。現在では様々な定義が存在する。

アーティストステートメント

井田大介
これはある種の病気かもしれないが、日常生活や制作中の行為の中に「彫刻」を感じることがある。
それは制作前のイメージや制作中に偶然できた形、完成した作品、そのどれとも違うもやもやとした「彫刻っぽい何か」だ。
彫刻ではない何かが、「彫刻のような構造」を持っているときに「彫刻的」という言葉を使う。
それは、駅にある雨漏りを溜めるバケツ、コストコのエスカレーター、資本主義のお金の流れ、制作中の床に置かれたチェーンソー、ボタンを掛け違えたシャツかもしれない。
今回はそのような日常にある行為や機能を素材にして「彫刻的」を作ってみる。
何を・どうすれば・どうなるか、という行為の中にあるモヤモヤした何か。
それは、人が生まれる前からこの世界に存在していた「彫刻」かもしれない。

井田大介

神農理恵
制作は、遊びをすることであり、どこで遊ぶことを止めるか思考することである。
アトリエでは身の回り3m程に様々なもの(クレヨン、マーカーペン、油絵の具、ろうそく、ガムテープ、道で拾った石、ブロック、こっぱ、鉄くずなどを)を床に散らばしている。とりあえず興味が赴くまま、自由に制作をする。制作前から自分の中に制作のルールや完成を定めず、偶然性を誘発させるように制作している。しかしその予想を立てた偶然性を超えて、予想外の新しい良さを制作途中に見出し、手を止めた瞬間に作品が完成する。まるで自分ではなくて作品そのものに意志が宿っていると感じる瞬間の時である。私にとって制作は良さをアップデートしていく行為であり、作品は良さに行き着くまでの遊びをありのままを可視化することが出来る。
良し悪しは誰にでもあり、生きることと共に変化する。人により一瞬であったり時間をかけて変化するものである。しかし私は生きるだけではなく、ものとあそぶことによって突然完成した作品が持つ、新たな良さに出会い続けるために制作している。

神農理恵

西太志
目の前を歩く人も私も、画像の中に写る世界中の人達も、同じようにマスクをしている。顔がわからない匿名の人物が、同じ問題を抱えている。
現実の世界が悪い冗談や嘘や物語のようで、現実感を伴わない。
数多のニュースにひととき心を揺さぶられても、全てはスクロールする指と共に流れていく。ネット内の匿名性がマスクをして表情のわからない現実の世界の人達と重なる。
私はこれまで、画像と物質性の相互関係を探りながら、絵画と現実が繋がる境界、虚構と現実が混在した場所、不透明で秘密めいたものを絵画や陶の立体で表現してきた。絵具や粘土、釉の物質感は、それぞれを補完し合うように空間を行き来する。
自身の体験や記憶を取り込み、再構築することで、自分にとってリアリティのあるものへと描き変えていく。
現実の世界がパラレルな世界に近づいてきたことで、よりクリアな景色が立ち上がってくる。

西太志